「踏まれる鬼を弁護してみた」〜東大寺戒壇院〜

 

 僕は寺や仏像を眺めるのが好きである。今までいろいろな仏像を見てきたが、とりわけ心惹かれるのが東大寺戒壇院にまつられた、四天王に踏みつけられる鬼だ。

 ふつう東大寺といえば、奈良の大仏が世に知られる。そのネームバリューたるや、メジャーでいうイチロー、松井、タレントなら“みのもんた”までを凌駕するだろうから、大仏殿が修学旅行生や外国人観光客で、いつも賑わうのは仕方ないだろう。

 けれども僕は、大仏殿のすぐ西にある、この戒壇院にこそ東大寺の醍醐味を感じるのである。訪れる人影もまばらな戒壇院の傑作は、一三〇〇年近い歴史のある四天王はもちろん、その四天王に踏みつけられている邪鬼が圧巻だ。
 四体の四天王はそれぞれ思い思いのポーズで邪鬼を踏んでいるが、とくに“持国天”に踏まれる邪鬼が群を抜いていい。彼を見ていると「ムギュ〜ウ」という呻き声さえ聞こえてきそうなほど鋭く踏まれ、よくも惨めな格好で踏まれてあっぱれあっぱれ、と金一封送りたいほどである。

 しかしなぜ僕が、踏まれる邪鬼ばかりに肩入れするのか考えると、それは自身の経験からではないか。よくよく考えると、この邪鬼そっくりに踏まれたことが2度もあったのだ。忘れもしない……あれは中学三年のときだった。

 校舎の廊下を歩いていると、前から歩いてきた不良グループに因縁を付けられ(視線があったとか肩が触れたとか)突き飛ばされ、足で踏みつけられた。頭から、あの邪鬼とそっくりに踏まれたのである。日本広しといえど、あれほど悲惨に踏まれる人間はそうそういないのじゃないか。
 だからこそ、僕にはあの鬼の気持ちが、文字通り痛いほどよくわかるのである。
 せっかくだから僕が鬼に代わり、踏まれ者の心境を打ち明けるとこんな具合である。

 たとえば、首から上を踏まれた者が最初に考えるのは、「どうやって自尊心を保つか」である。痛いだの苦しいだのは二の次で、たいして深刻な問題ではない。それより屈辱的な姿を他人に見られる方が、よほど苦痛だ。
 だから、まず周囲に知り合いがいないか、かろうじて自由な目玉だけをキョロキョロさせる。そして「片思いの美子だけには見られませんように」などと、自分の神に祈りながら涙腺の弛んだ瞳で、廊下にあった消化器の製造番号を見上げてる。すると、神に呼ばれたかのように美子が頭上を通りかかるのだ。
 しかし彼女は、足下の異様な光景に一瞬立ち止まったが、まるで車に轢かれたカエルでも見るような表情で目を細め、意外にも冷静に通りすぎていった。興味すら示されないのも残酷である。

 そして2度目に踏まれたのは、歩行者天国化した繁華街だった。大勢の人間でごった返している道をなぜか、黒塗りの高級車がクラクションを響かせながら暴走してきた。その車は歩行者と次々に接触しながら僕の足先を踏んづけたうえ、目前にいたオバさんの買い物袋を空中にはじき飛ばして走り抜けていく。
 それを見た瞬間、頭の中でプツン、と何かが切れた。相変わらずクラクションだけをやたらに鳴らし、走り去ってゆく車。僕はその暴走車を追いかけ、ドアーを思いきり蹴り上げた。すると、ベコッという鈍い音とともに、案外あっけなく蹴った場所がへこんでしまった。

 その直後、停車した車から、見るからにややこしそうな若者が四人降りてきて、いきなり殴られた。思う存分に、自由自在に、縦横無尽に殴られたうえ頭を踏まれた。またまた「格好わるぅ」なのである。

 僕はそのまま気絶してしまい、気付いた時には病院のベッドの上で脳波の検査をされていた。そして身体に異常がないことを確認したのち、警察の留置場に送られた。どうやら器物損壊の現行犯で逮捕されたらしい……が、どうも納得のいかない展開である。
 この世の理不尽と、逮捕されたことへの不当性を強く抗議してもよかったが、体中が痛くてそんな元気は残ってなかったし、もう面倒だった。この先は神に身をまかせたい。今ひとつ信用ならない神だが。
 それでも我が手にかけられた手錠と、まるで猿回しのような腰ひもには泣けた。なぜ、いつも僕がババを引くのか。

 留置場には三泊四日ほど世話になったが、そこでは毎朝、体操の時間があり、この留置場の入居者全員が屋上に集まってくる。その時、先達の住人が二名いた。一人は連続放火魔、もう一人は痴漢の常習犯である。二人は僕を見るなり、優しく語りかけてきた。

痴漢 「兄ちゃん、えらい顔が腫れとるやないか? まだ痛いか?」

放火 「元気ないなぁ〜、クヨクヨすんなよ! 生きてたらそのうち、エエこともあるで。コツコツと行こうや、コツコツと……」

 コツコツと、火つけて廻ってどうするねん!? だいたい、アンタらに慰めてもらう筋合いなどまったくない。勝手に仲間意識を持つな……と心の中で叫びつつ、彼らの優しい言葉に目頭がウルウルとする己がまた情けない。頭を踏まれるより数段情けないが……ところで、アンタら本当に犯罪者なのか。
 すると、我々のやりとりを見ていた警官がこう言った。
「よぉ、新入り。意気投合しとるな」 してないというのである。

 くだんの昔を思いつつ、昼間でも薄暗い戒壇院の四天王像に、僕はそっと近寄ってみる。傍らで見るどの像も、やはり無比の秀作である。
 僕だけの話じゃなく、大人は皆それぞれ、何らかの形で踏まれてきたはずである。ぶざまな自分をひた隠し、つま先立って世間を渡り歩くのに疲労してるのかも知れない。だからこそ、のびのびと踏まれるぶざまな鬼に、得も知れぬ親近感を抱くのではないか。
「俺も似たようなもんやで」 誰もいない堂内でつい、ため息だって漏れるはずだ。

 しかし、 そんな僕の独り言にさえ「キサマほど罪深くはないわい」などと、可愛げない応答までありそうなほど、リアルな名作であるからして……やはりコイツは末ながく、おもいきり踏まれてりゃ世の中は、まあまあ平和なのである。

 

 

 

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