「あえて、歩きだす僕へ」 〜奈良市、五却院〜
先日、僕は奈良市内をウロウロしていた。向かったのは北御門町にある五却院(ごこういん)と呼ばれるお寺。 そこには「五却思惟阿弥陀如来」(ごこうしゆいあみだにょらい)という仏像が安置されており、最近静かな人気を集める風変わりな仏様なのである。で、その仏像のどこが変わっているかというと、まずはそのお姿をみてほしい(図)。 何というか……そのヘアースタイルが先進的というか、反政府的というか。午後二時ごろの商店街で、ブリの切り身を値切ってるオバちゃんみたいなお姿なのである。 じゃ、なぜこの仏様の髪型はこうか。じつはその名の「五却」に由来があった。 では、その五却という時間はどのくらいの長さか。まずは百六十キロメートル四方の巨石を想像してほしい。そこへ三年に一度、空から天女が舞い降りてきて、巨石の上でUターンして帰ってゆく。そのとき天女の羽衣が石に触れ、その摩擦で巨石がすり減って消滅するまでの時間、それが一却である。五却はその五倍だ。 説明はさておき、僕が五却院を探して歩き回ること二時間、見事に迷ってしまった。奈良市内は入り組んでややこしすぎるぞ。 不器用ながら僕だって日本人だ。その日本人が外人に道を尋ねるのか? しかも英語なぞ、てんで話せないのである。 しかしながら、英語すら解らない男が海外を一人で歩き、どうやって英語圏の人たちとコミュニケーションを交わしたかといえば、それは“魂の英会話”を駆使したのである。話し相手の内容なんて、敵の目を見れば簡単に理解できるものなのだ。そしてデタラメな英語でドンドン話しかける。たとえば、中国を旅している時にこんな事件があった。 僕がいたホテルの共同部屋に、一人の白人青年が一緒に泊まっていた。彼の名前はマイケル。どこの国の人かは知らない。 しかし、その溝を素直にまたいでしまうと、あとから来た人に尻を見られてしまう。だから外国人の多くは、入り口に向かって座ることが多いようだった。 「How much ?」(今朝の出具合はどうだい?)この場合、値段をきいているのではない。 「So much 」(大漁だ) と、マイケルは顔を赤らめながら立ち上がり、そばに置いてあったバケツの水を、ドバーッと溝に流した。やがて僕の尻の下をマイケルの“モノ”が津波のように流れてきたのだが、たしかにスゴイ量である。なに食ってるんだマイケル。 気恥ずかしさから、さっさと立ち去るマイケルの後ろ姿に僕はこういった。 「グレート! マイケルッ」(本当だ! スゴイよ、マイケルッ) そう声をかけると、マイケルは振り向きもしないで、両手を上げてから振り下ろし “やめてくれ、恥ずかしい” というようなジェスチャーを見せた。これが魂の会話である。心の英会話なのだ。 それはさておき、五却院を探してまだウロウロしていたのだが、思い切って前から来るデカプリオに道を尋ねてみた。 「ハ、ハロー」 ひきつった顔で笑いかけると、 「ゴコーイン? ゴコーイン?」(五却院へはどう行けばいいのですか?) 恥を忍んでそう問いかける男に、彼らは立ち止まりもせず「バーイ」って、手を挙げながら通り過ぎていった。僕も反射的に「バーイ」って答えてしまったが、バーイではないっ! 五却院はどこなのだ!? 英語が解らんのかな。それとも発音がおかしかったか? ガッカリしてそのまま歩き出したのだが、ふと振り返ると、五十メートル後方で散歩中だった腰の曲がった婆さんに、なんと、さっきのデカプリオが話しかけていたのである……どういうことやねん!? おまえ日本語が話せるではないかっ、それならどうして僕と会話しなかった!? しばし状況を憶測するに、どうやら僕は彼らにパスされたらしい。考えてみればそうだ。僕だって海外を歩いていて、現地人に道なんか尋ねられたら無視の一手だろう。そんな輩は十中八九、詐欺師の類である。さもなくば闇両替か麻薬の密売人、インチキガイドか土産のぼったくりだ。いずれも関わると、ロクな目に遭わない手合いである。 少し肩を落としながら、なんだかどうでもよくなってきた寺を探しはじめると、日本語で婆さんに話しかけていたあのデカプリオが、僕の前へすたすたと戻ってきた。そしてこう言ったのだ。 「わかりました。真っ直ぐ行って、左に3……ですね。ありがとう」深くお辞儀をした僕は、彼の教えてくれた方角へと歩き出したのである。胸一杯に新鮮な気持ちをつれ、目指すは“真っ直ぐ行って左に3”だ。どこだか判らないが……特に後半は難解だが、目指すのはあくまでも左に3なのである。 そして最初の曲がり角まできて、彼らの教えてくれた道をこのまま素直に行くか、行くまいか迷ってるのだった。さっきは気付かなかったが、左に三回曲がったら元へ戻りそうな気がする。いや、意外にたどり着くかも知れん……あえて行くか。 僕はいさぎよく苦難の予期される道を歩きだした。ダメかも知れないが、人情に背を向けることはできない。ふふ、我ながら格好のいい男である。 唐獅子牡丹などを鼻歌に、機嫌よく家路を急ぐ僕だったが、帰宅後いざ原稿を前にしてハタと気がつくのである。仏像見ないで何を書くんだ? 締め切りに間にあわん……注文通りの泥沼である。 いまこの瞬間も五劫思惟阿弥陀如来は、人々を救済するために考え続けておられるのであろう。できればあの日、愚かな男を一匹、寺まで導いてくださると助かったのだが……阿弥陀様は愚か者のために永劫の思惟を続けるも、当人と直接的には、あんまり関わりたくないようである。
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