「あえて、歩きだす僕へ」 〜奈良市、五却院〜

 

 先日、僕は奈良市内をウロウロしていた。向かったのは北御門町にある五却院(ごこういん)と呼ばれるお寺。

 そこには「五却思惟阿弥陀如来」(ごこうしゆいあみだにょらい)という仏像が安置されており、最近静かな人気を集める風変わりな仏様なのである。で、その仏像のどこが変わっているかというと、まずはそのお姿をみてほしい(図)。GOKOU.JPG - 101,208BYTES

 何というか……そのヘアースタイルが先進的というか、反政府的というか。午後二時ごろの商店街で、ブリの切り身を値切ってるオバちゃんみたいなお姿なのである。

 じゃ、なぜこの仏様の髪型はこうか。じつはその名の「五却」に由来があった。
 五劫というのは、五時間とか五年間などの時間を表す単位。五却のあいだ思惟(考え込んでいる)阿弥陀様なのである。

 では、その五却という時間はどのくらいの長さか。まずは百六十キロメートル四方の巨石を想像してほしい。そこへ三年に一度、空から天女が舞い降りてきて、巨石の上でUターンして帰ってゆく。そのとき天女の羽衣が石に触れ、その摩擦で巨石がすり減って消滅するまでの時間、それが一却である。五却はその五倍だ。
 よくもまぁ、とんでもない単位を考えつくもんだと驚いてしまうが、それぐらい長いあいだ、愚かな人類の救済を考えてくれたのである。結果、散髪に行くのを忘れてこの様なヘアスタイルになったというわけだ。

 説明はさておき、僕が五却院を探して歩き回ること二時間、見事に迷ってしまった。奈良市内は入り組んでややこしすぎるぞ。
 やむなく、次に出会った人間に尋ねようとしていたところ、ちょうど前方から背の高いアベックが歩いてきた。彼らが近づいてくるにつれ、その二人組は外国人で、白人アベックの観光客らしいことが判明した。男性の方はデカプリオに似た美男子ではあったが、微妙な状況である。

 不器用ながら僕だって日本人だ。その日本人が外人に道を尋ねるのか? しかも英語なぞ、てんで話せないのである。
 中学生の頃から英語の試験は十四点が最高得点であり、進級も難しいほどバカだった。そんな人間に英語など話せるはずもない。でも、そのかわりと言ってはなんだが、バイリンガルを目指して中国留学した経験ならある。ゆえに、前方から歩いてくるあのアベックが中国人だったら、多少の意思疎通は可能も知れんが、デカプリオが中華人民である確率はかなり低いぞ。やっぱり英語か……トホホである。

 しかしながら、英語すら解らない男が海外を一人で歩き、どうやって英語圏の人たちとコミュニケーションを交わしたかといえば、それは“魂の英会話”を駆使したのである。話し相手の内容なんて、敵の目を見れば簡単に理解できるものなのだ。そしてデタラメな英語でドンドン話しかける。たとえば、中国を旅している時にこんな事件があった。

 僕がいたホテルの共同部屋に、一人の白人青年が一緒に泊まっていた。彼の名前はマイケル。どこの国の人かは知らない。
 ある朝トイレへ行くと、先にマイケル君がしゃがみ込んで用をたしていた。ここで説明を付けくわえると、中国の共同トイレにはドアーの付いていない所が多い。そのトイレも例外ではなく、各人の間に小さな仕切板が一枚あるだけ。便器すらなくて、しゃがみ込んだ全員の尻の下に、たった一本の深い溝が貫通していた。その共同溝をまたいで用をたすのである。

 しかし、その溝を素直にまたいでしまうと、あとから来た人に尻を見られてしまう。だから外国人の多くは、入り口に向かって座ることが多いようだった。
 マイケルも例にならって、入り口へ向かって座っていた。遅れてトイレにやってきた僕に気が付くと、気恥ずかしさもあって「ハーイ」とマヌケな挨拶をしてくる。僕も「ハーイ」と答えて、空いていた彼のとなりにしゃがみ込んだ。
 しばらく互いに黙り込んでいたが、まったく会話しないのも気まずいから、勇気を出して声かけたのである。

「How much ?」(今朝の出具合はどうだい?)この場合、値段をきいているのではない。

「So much 」(大漁だ) と、マイケルは顔を赤らめながら立ち上がり、そばに置いてあったバケツの水を、ドバーッと溝に流した。やがて僕の尻の下をマイケルの“モノ”が津波のように流れてきたのだが、たしかにスゴイ量である。なに食ってるんだマイケル。

 気恥ずかしさから、さっさと立ち去るマイケルの後ろ姿に僕はこういった。

「グレート! マイケルッ」(本当だ! スゴイよ、マイケルッ) そう声をかけると、マイケルは振り向きもしないで、両手を上げてから振り下ろし “やめてくれ、恥ずかしい” というようなジェスチャーを見せた。これが魂の会話である。心の英会話なのだ。

 それはさておき、五却院を探してまだウロウロしていたのだが、思い切って前から来るデカプリオに道を尋ねてみた。

「ハ、ハロー」 ひきつった顔で笑いかけると、
「ハーイ」 と二人で声を合わせて挨拶してくれた。英語が通じたようである。気をよくした僕は巻き舌で、語尾を上げながらこう尋ねた。

「ゴコーイン? ゴコーイン?」(五却院へはどう行けばいいのですか?)

 恥を忍んでそう問いかける男に、彼らは立ち止まりもせず「バーイ」って、手を挙げながら通り過ぎていった。僕も反射的に「バーイ」って答えてしまったが、バーイではないっ! 五却院はどこなのだ!? 英語が解らんのかな。それとも発音がおかしかったか?

 ガッカリしてそのまま歩き出したのだが、ふと振り返ると、五十メートル後方で散歩中だった腰の曲がった婆さんに、なんと、さっきのデカプリオが話しかけていたのである……どういうことやねん!? おまえ日本語が話せるではないかっ、それならどうして僕と会話しなかった!?

 しばし状況を憶測するに、どうやら僕は彼らにパスされたらしい。考えてみればそうだ。僕だって海外を歩いていて、現地人に道なんか尋ねられたら無視の一手だろう。そんな輩は十中八九、詐欺師の類である。さもなくば闇両替か麻薬の密売人、インチキガイドか土産のぼったくりだ。いずれも関わると、ロクな目に遭わない手合いである。
 しかし、僕がそんな連中と一緒にされたのは無念極まりなかった。また僕だって、海外で同じような態度をとってきたのを考えると、申し訳ない気もする。濡れ衣をきせてしまった場面もあったろう。この際だから皆様に陳謝させていただきたい。勘弁してくれ。

 少し肩を落としながら、なんだかどうでもよくなってきた寺を探しはじめると、日本語で婆さんに話しかけていたあのデカプリオが、僕の前へすたすたと戻ってきた。そしてこう言ったのだ。
「ゴコーインハ、マスグ イテ ヒダリ 3デスネ。」驚いたことに彼は、片言ながら僕のために道を訊いてくれていたのだ。その時僕の胸に、得も知れぬ感動が突き上げた。

 「わかりました。真っ直ぐ行って、左に3……ですね。ありがとう」深くお辞儀をした僕は、彼の教えてくれた方角へと歩き出したのである。胸一杯に新鮮な気持ちをつれ、目指すは“真っ直ぐ行って左に3”だ。どこだか判らないが……特に後半は難解だが、目指すのはあくまでも左に3なのである。

 そして最初の曲がり角まできて、彼らの教えてくれた道をこのまま素直に行くか、行くまいか迷ってるのだった。さっきは気付かなかったが、左に三回曲がったら元へ戻りそうな気がする。いや、意外にたどり着くかも知れん……あえて行くか。

 僕はいさぎよく苦難の予期される道を歩きだした。ダメかも知れないが、人情に背を向けることはできない。ふふ、我ながら格好のいい男である。
 そして予想通り、くるくると二周まわって帰宅した。もちろんアナーキーな仏像は拝めなかったが、それでいいのである。義理人情を重んじた僕が、あえて不幸に陥っていく……おお、泥沼の状況がまるで任侠映画の高倉健ではないか。

 唐獅子牡丹などを鼻歌に、機嫌よく家路を急ぐ僕だったが、帰宅後いざ原稿を前にしてハタと気がつくのである。仏像見ないで何を書くんだ? 締め切りに間にあわん……注文通りの泥沼である。

 いまこの瞬間も五劫思惟阿弥陀如来は、人々を救済するために考え続けておられるのであろう。できればあの日、愚かな男を一匹、寺まで導いてくださると助かったのだが……阿弥陀様は愚か者のために永劫の思惟を続けるも、当人と直接的には、あんまり関わりたくないようである。

 

 

 

 

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