明日香のちっちゃな足跡 明日香村

 

 秋風が吹き始める明日香村を歩いてみた。まずは有名な高松塚公園を抜けて、橘寺、石舞台へと向かうコースを歩いてみる。

 高松塚から橘寺へ向かう道はだんだん細くなり、狭い民家の間を抜けたと思ったら、突然ド〜ンと田んぼが広がってる。その先に橘寺は見えていた。
 あぜ道には学校帰りの小学生が三人、雑草を踏みながら走り抜けていく。踏まれて倒れた雑草に、子供らの小さな足跡が残っていた。

 僕は以前、この明日香村を巡る観光タクシーの仕事をしていた。いろんな客を乗せて村を案内したが、今でも忘れられない出来事がある。それは小学一年生ぐらいの少年を一人きりで、六時間の明日香観光に連れて行くという簡単な仕事だった。

 彼らは母親と二人、関東方面から奈良へやって来たらしいのだが、一日だけどうしても母親の手が離せない用事があって、その間タクシーで観光へ連れまわって欲しいとの依頼だったのだ。
 
 約束のホテル玄関に車を止めて待っていると、若く華麗な二十代後半であろう女性と、彼女に手を引かれた少年が現れた。

 「○○観光の運転手さんですよね? 私、電話で予約していた鮫島と申しますが」 そう笑いかける母親をよく見ると完全に僕のタイプである。ガキなんぞ放っといて、この女と二人で観光した方がよほど楽しそうだが、悲しいかなそうもいかない。

 「じゃ、三時までこの子をよろしくお願いしますね。行き先はこの子の指示した所へ連れて行ってください。大丈夫です。この子は遺跡巡りが好きで、明日香の道だって詳しいんですよ」 そう説明すると彼女は、少年に食べさせる昼食代の千円を余分に払い消えてしまった。

 取りあえず少年を乗せて明日香へ向かったが、こんな小さい子にどんな遺跡を見せりゃ喜ぶのか皆目見当がつかん。それで母親から言われたとおり本人に聞いてみた。
 「おい坊主、どこへ行きたい?」 と、となりに乗っていた少年に尋ねてみる。後ろのシートに独りじゃ寂しかろうと思い、助手席へ座らせていたのだった。
 「上居の立石に行きたいな」 と、彼は遠慮なく答えたが……どこやねん、それ!? なんちゅうマニアックな場所を言いだすのか。そんな場所聞いたこともない。もっとポピュラーな場所にしろ。
 「じゃ〜ね、マラ石」マ……? 石舞台にしておけ。「イヤだよ、あそこは飽きたもん」 などと生意気なことをいう。馬鹿者、貴様のようなガキに飽きられるほど、石舞台は薄っぺらい場所ではないわい! なんて偉そうに説教してはいるが、早い話、僕はここしか遺跡の説明ができないのである。

 嫌がる少年を強引に石舞台まで連れてくると、この遺跡について知ってる全てを説明してやった。
 「いいか坊主、この石舞台はだなぁ」 身振り手振りで得意気に話してやると、彼はその説明に割って入った。
 「ねえ、おじさん。この古墳の下にはね、もっと小さな古い古墳が沢山あったんだよ」
 へ? へぇ〜、そっ、そうなの? いきなり学者みたいな説明をはじめる少年にドギマギしてると、彼はさらにレクチャーを続ける。
 「要するに、他人の古いお墓を潰して、その上にもっと大きな自分のお墓を作っちゃったんだね。だけど権力者でないとそんなの無理でしょ?」
 「そっ、そ、そうだな。人生そんなもんだ」 と、僕は不可解な相づちを打っていたのだが、彼の説明はまだまだ続く。
 「それで時の権力者だった、蘇我馬子の古墳じゃないかというのが有力な説なんだ」
 なるほどそういう説も有力だが、おまえ世の中そんなもんだ……と、ぜんぜん関係ない大人の逃げ口上で、僕はかろうじて崩れかけたプライドを保っているのだった。

 しかし、こいつの知識はただ者ではない。ひょっとして天才かも知れんな。今のうちに手なずけておけば、大人になってから面倒見てくれるかも知れんぞ、フフフ……などと考えている間に昼食の時間だ。喉もカラカラだった。母親から預かっていた千円札を少年に持たせ、
 「おい坊主、喉が渇いたろう。このお金でジュースを買ってこい」 と言いつけた。これじゃ主従関係の顛倒かも知れんが、僕はガキと弱者には強気である。 しかも彼は喜んで使いに走ったので、意外に頭も良くないみたいだった。スキップで駆けていく後ろ姿は哀れですらある。あれは出世しない。残念だ。

 しばらくして彼は、両腕一杯のジュースを買って戻ってきた。
「おまえっ、千円全部ジュース買ったのか」
 腕からこぼれ落ちそうな缶ジュースの山から、彼はニコニコ頷いている。なんという数量観念の薄いガキだ。おまえ、昼飯はどうすんだよ。しかし、もう買ったものは仕方ない。
 「いいか、お前の母ちゃんには “おいしいご飯をいっぱい食べた” って言うんだぞ」
 そう彼にいい聞かせ、二人がかりでジュースをすべて飲みほした。彼は満足顔だったが、こっち腹がタプタプで吐きそうだ。

 午後三時過ぎ、観光が終わった我々は、あらかじめ約束していた場所で母親が迎えに来るのを待っていた。
 「おまえの母ちゃん、遅いなぁ」 約束の時間を十分ほど過ぎた時計を、ぼんやり見ながら呟くと、彼はこんな話をはじめた。

 「ボクのね、おとうさんとおかあさんは別れちゃうの。それで今日ね、そのお話をしてるんだって」
 「そうか……」 僕の心の中で、チクリと音がした。

 「坊主、今日はおもしろかったな。今度おまえが一人でここへ来られるようになったら、俺に電話しろ。その時にゃ、上居の立石でもマラ石でも、俺の自転車で連れて行ってやる。だから勉強しろ。もっと勉強してノーベル賞をとれっ、おまえなら出来る。それでノーベル賞をとったらな、すぐ俺に連絡し……て下さい。ハハハ」
 「うん、わかった」 そういって彼はまた笑った。

  あの日から十年が過ぎた。母親に手を引かれて帰った、彼の姿を二度と見ることはなかったし電話もない。今でもこの村で子供を見かけると、腕にジュースを抱えて走ってくる彼の笑顔がオーバーラップして、また胸でチクリと音がする。

 子供らの残した草の足跡がムックリ起きあがり始めた。膨らむ雑草を見ていると、不思議に少し心が緩んでくる。 僕も今からあぜ道を行くことにする。行き先変更だ。

 今日は子供らの残した足跡を追って、明日香をゆっくり歩きたい気分になったのである。

 

 

 

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